こんにちは。
飯田橋にあるカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。
人によっても好みが分かれるところでしょうが、私は書き込みした本がどうも苦手です。
古本であっても、本を開いたときに、そこここに線が引いてあったり、コメントらしき書き込みがあったりするのを発見すると、本文よりもそっちに気を取られてしまうことが癪にさわります。
線が引いてある箇所の文言を読んで、どうしてここに線を引いたんだろうと考え、また線も波線だったり、二重線だったり(たまに赤線、みたいに色を変えているヤカラまでいます)バラエティに富んでいるものですから、どうして線の種類に違いをつけたんだろうとまたしばし考え、そしてさっぱりわからずにあきらめるのです。
書き込みに関してはもっと悲惨です。共感の持てる書き込みはない、と言い切ってもいいほどで(その場の個人的な覚書やコメントでしょうから当然です)、書いた人には意味のある、でも私にとっては何の意味もなさない書き込みが目に入ると、どうしてもムキー!となってしまうのです。
私はなんというか虚心坦懐、にして物語と向き合いたいだけなのですが。
とある古本屋でみつけた『赤ずきん』の本は惨憺たる状態でした。
「むかしむかしあるところに赤ずきんちゃん、と呼ばれる女の子がいました」と、その本ははじまっていました。
でも、「その女の子は赤い頭巾がとても似合っていたからです」という文章の隣に
いい気になるな
という書き込みがあったのです。その文字に重ねるように
そんな目立つ頭巾をかぶっていたから恐ろしい事件が起きたんだぞ。
いい気になっていたお前の
責任だ
と赤い字で書かれています。
他の場面では
余計なことをオオカミにしゃべるな。お前の不注意の責任をとれ
能なし
バカ
人殺し
ひ と ご ろ し
という文字でページがうめつくされています。
本を読み進めていくにつれ、書き込みやら線はどんどん多くなってきて、最後のほうはほとんどそれらに埋め尽くされるようになっていました。ページも何ページか破れたり、バラバラにされているようです。
そんなわけで、その「赤ずきん」の本は、赤ずきんがオオカミに食べられるところで終わっていました。
その先は書き込みや線、折ジワ、インクのにじみでまるで読み進めることができなかったのです。
トラウマの記憶は、書き込みや線がところ狭しとせめぎ合っているような本のようなものです。書き込みの大半は太字で書いてあり、とても批判的な内容です。また、あちこちに意味ありげな線が引いてある(かえってそれで意味がわからなくなるような)ことで、読み進む気力を失わせる本になっています。
そんなトラウマ記憶と向き合うために、PE(持続エクスポージャー療法)では、「想像エクスポージャー」という手段を用います。
向き合う、というとなんだか大仰にきこえるかもしれませんが、どちらかというと書き込みや線などで読みにくくなっている物語を、実際はどんなことがあったのか、虚心坦懐にして、丁寧に読み進んでいく作業に似ています。
書き込みや線、ページの汚れに気を取られずに、内容をそのまま読み進めていくと、まだ小さい子どもであった赤ずきんにおばあさんの役に立ちたいという純粋な気持ちがあったことや、たしかに冷血なオオカミに一度は食べられて怖い思いをしましたが、猟師がちゃんと助けてくれたこと、そしておばあさんと無事を喜び合ったことが書かれていたとわかるでしょう。
大切なのは、その本を取って、ページを開く勇気です。
ちなみに、多くの赤ずきんたちは、このオオカミ事件の後、赤い頭巾をかぶるのをやめてしまうのですが、再び赤い頭巾をかぶれるようなるには「現実エクスポージャー」が助けになってくれます。
●現実エクスポージャーって☞【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題
●PEの情動処理理論☞【モヤモヤした感じ】持続エクスポージャー療法の理論
●トラウマ記憶は「怖い映画」にも例えられる☞【フォア先生】トラウマストーリーを何度も話すことについて、有無を言わせない切り口
ではまた!